「逆襲」のふりかえり
北条を離れてからずいぶん経ちます。わたしが町を出て行ったのは97年。 独立して会社をつくったときでした。このページの以下の文章は、わたしがまだ北条に住んでいたころの話でして、 わたしが発行していたミニコミ誌に自分で書き下ろして掲載した原稿を掘り出してきたもの。 写真も、モノクロのものは当時撮影したもの(またはカメラマンの山本健一さんから提供してもらったか、またはどっかから無断で転載したものかも)です。 原稿のタイトル「北条節句祭の逆襲'96」。 いまなら、こうやってネットでお手軽にバンバン情報発信してたでしょうけども、ずいぶん面倒なことをやっていたもんですなぁ。
意味が通じなくなったので、このサイトでは「担ぐ(かつぐ)」という日本語に置き換えてますが、
地元のもんは屋台や神輿を肩に載せて運ぶことを「かく」と言ってます。
「ゴマ外してかいていこ!」みたいに。(屋台を乗せる台車のことをゴマ、またはコマと呼んでいる。)
「かく」は漢字で「舁く」と書き、むかしは「籠かき」という職業もあって、古語辞典にも出てますが、もうぜんぜん通じません。わたし自身、祭のほかでは使うこともないですが、祭では「担ぐ」とは言わないし、逆に、ぜんぜんしっくりこない。ここで使っててもしっくりきてない。屋台は「かく」もの。言葉の置き換えはやむをえず妥協。
かいていくのか、ゴマに乗せて押していくだけか、そこのちがいが死ぬほど重大。
30歳の青年団長
節句祭では14町から化粧屋台が奉納されます(※平成31年に宮前町が屋台購入して15町に)。わたしの地元、御旅町はその中でももっとも小さい町のひとつで、いまやわずか50戸足らず。 担ぎ手も足りない、乗り子も足りない、花(寄附金)も集まらずお金も足りない。 もう屋台を維持するのは無理ではないかという危機感いっぱいの限界集落です。 会社にたとえたら、資金繰りに行き詰まって倒産寸前の零細ってとこ。93年(30歳でした)から3年間、御旅町の「青年団長」を買ってでました。 青年団ですから、ふつう団長というのは20代半ばの若手が務めるもんです。 が、大学に入ると同時に街へ出て行って祭の当日だけしか戻ってこないとか、祭にはもう興味ないとか、大半の町が祭の担い手たる若年層に不足してますから、30代で青年団長というのも珍しくありませんし、何年も続けて団長というケースもあります。 わたしが団長になったときの御旅町青年団は町内に住んでいるメンツだけだと4人しかいない。 心細く「これはマジでヤバいな」と半泣きだったことを覚えています。
祭の衰え
あのころ(90~93年ごろ)の北条節句祭はマジでヤバかった。これはわたしの気のせいや思いすごしじゃないはずです。 御旅町だけの問題でもありませんでした。 祭の見物に来たお客さんに、宮入りを見られるのが恥ずかしいほど、事態は切迫してました。屋台が上がらない。ボトボト落として、なかなか動かない。 宮入りで、前の屋台が落としたら、待っとくのがしんどいから次も落とす。 落とすというより、置いて一服してしまう。もうそれがあたりまえ。 宮入りの途中で屋台を落として、そこで平然とタバコ吸ってるヤツを見たとき、「もうこの祭はあかん」と思った。 子どものころの、血湧き肉躍る興奮はもうどこにもなかったし。
こんな、だらだらした祭は、自分が知っている北条の祭とはちがうと思うと悔しくてしかたない。 台車に乗せた屋台を、引っぱりまわすだけ。 けど、人数が揃わないからどうすることもできません。 足腰の立たない、よぼよぼのじいさんまで駆り出して、木方のおっさんまで総がかりで肩を入れて、それでも屋台が重たくて持ち上がらない。 人数の少ない町どうしで融通しあうけど、それにも限界あるし。 これはもう、宮入りは無理かも、もうあかんかも、と、なんべんも思った。
雨と祭
雨で祭が中止にされてしまうことほど、心が折れることは他にないですね。 (「祭が中止」というのは語弊がありますが、屋台奉納が中止になることと解釈してください。 屋台奉納がなくなっても神事はやってますから祭礼そのものが中止になるわけではありません。)祭の何日も前から、笛や太鼓の練習をして、酒や飯の段取りをして、町内に笹を張って、ただこの日のために準備するんです。乗り子もその家族も宮入りを心から楽しみにしている。 それを、年寄りの集まりが一声で中止にしてしまうんですから、たまったもんじゃないんです。
季節が季節ですから、節句祭に雨が降るのはしかたがありません。実際、よく降ります。雨が降るのはしかたがないとして、ちょっと降ったらすぐに祭が中止にされてしまう。 中止と決まって半べそかきながら屋台を引き取って、しばらくしたら雨が上がって青空が広がる。 その恨めしい気持ちがわからんかっていう話です。ずぶぬれになってでも祭をやらせろと言ってるのではないんです。 「このくらいの雨ならどうってことないから祭やってるやろ」って、現に大勢の見物人が出て来て待ってるのに、とっとと屋台を片づけてしまう、その弱腰はなんなんだと怒っているんです。
わたしが青年団長になった最初の年も、あっさりと中止の宣告。 そして案の定、屋台を片づけてからしばらくしたら雨は上がった。これがパターンなんです。あまりに空しいので、いったんしまった屋台をまた出して、半ばヤケクソ気味に町内だけで練りました。 春の天気なんですから、少しのあいだ待ってたらやむことのほうが多いんです。
北条節句祭連絡会
このあとの文章の中に「連絡会」というのが何回も出てきます。 わたしが青年団長になって2年めの1994年、「北条節句祭連絡会議」と称して全町の青年団長が神社に集まろうと提案しました。 すたれる一方の祭を「なんとかせなあかん」という切迫感みたいなのがあって必死でしたから、あっちこっちかけずりまわってネジこんだ。笹屋の井上晃さんと出会って話をきくうちに節句祭の無責任な意思決定機構が見えてきて、そこがひとつの標的になったと思います。 宮司にかけあい、総代会の役員にかけあい、地元の有力企業の代表にかけあい、よその祭の青年団にかけあい‥‥、祭の勢いを取り戻すそうという目的に向かってスイッチが入ってしまったんですね。
いま、その組織がその後どうなったか、実はよく知りません。ぎゃあぎゃあ騒いでけしかけて、発足するだけして、あとは勝手にやれって感じで放って出てしまったかたちになりました。 そこはちょっと反省。何かを変えようとすると、なんせ、ややこしい。血の気の多いもんどうしの意地の張りあいで。そこが祭のややこしいとこ。 指揮命令系統もクソもなく、上下の統制のきかないところで血なまぐさい感情がぶつかりあって衝突が絶えません。 いまも、よその祭できっと、似たようなごたごたがくりかえされているはずです。これからもそうでしょう。
ま、1990年代の節句祭に起こったささやかな「逆襲」に、ざっと、こういう背景があったんだな、とだけ。